宫津藩
宫津藩 | |
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日语汉字 | 宫津藩 |
平假名 | みやづはん |
罗马拼音 | Miyazu-han |
所在地 | 日本丹后国与谢郡宫津 |
藩厅 | 宫津城 |
伺候席 | 雁间 |
人口 | 20,356人,明治2年(1869年) |
宫津藩(日语:宮津藩/みやづはん Miyazu-han */?)是日本丹后国与谢郡宫津的藩[注 1],元和8年8月12日(1622年9月17日)创藩,宽文6年5月3日(1666年6月5日)废藩,宽文9年2月25日(1669年3月26日)再次创藩,延宝8年6月26日(1680年7月21日)再次废藩,延宝9年2月25日(1681年4月13日)第三次创藩,明治4年7月14日(1871年8月29日)废藩置县[2]。
石高在高峰期达90,000石,明治维新时实高是70,720石,藩厅是宫津城,藩校是文政元年(1818年)2月创立的礼让馆,明治2年(1869年)时改称文武馆,同年的人口是4,704户20,356人[2][1]。武家屋敷方面,本庄松平家时期江户藩邸上屋敷曾经设于小川町、一之桥外、筋违桥内、大名小路以及虎门内,向屋敷位于骏河台,下屋敷则位于下谷、本所石原、大久保和东大久保[注 2][5]。京屋敷位于上生洲町[注 3][6]。
历史
元和8年8月12日(1622年9月17日),原本领有丹后一国的京极高知死去,按江户幕府命令或高知遗愿,丹后一分为三,长子京极高广继承其中的78,200石,并且以宫津城为居城,从而创立宫津藩。承应3年4月23日(1654年6月8日),高广之子京极高国虽然继任为藩主,不过在宽文6年5月3日(1666年6月5日)由于与高广不和,加上施行恶政而被改易,宫津藩的领地也变为幕府领[2],由生野代官所负责管治[7]。
宽文9年2月25日(1669年3月26日),永井尚征从山城淀藩以73,600石入主宫津,自此历任藩主均是谱代大名。延宝2年正月10日(1674年2月15日),尚征之子永井尚长接任为藩主。延宝8年6月26日(1680年7月21日),尚长在增上寺被志摩鸟羽藩藩主内藤忠胜刺杀,永井家由于没有继嗣而被改易。延宝9年2月25日(1681年4月13日),阿部正邦从武藏岩槻藩以73,600石入主宫津。元禄10年2月11日(1697年3月3日),正邦转封至下野宇都宫藩,相对地奥平昌成则从宇都宫藩以90,000石入主宫津。正德4年4月4日(1714年5月17日),宫津藩爆发全藩一揆[2][7]。
享保2年2月11日(1717年3月23日),奥平昌成转封至丰前中津藩,宫津改由青山幸秀从信浓饭山藩以48,000石入主。延享元年10月30日(1744年12月3日),幸秀之子青山幸道继位。宝历8年12月27日(1759年1月25日),幸道转封至美浓郡上藩,松平资昌则从远江滨松藩以70,000石入主宫津。宝历11年11月27日(1761年12月22日),出羽鹤冈藩藩主酒井忠寄七子作为资昌养子而继位,即松平资尹。明和2年9月16日(1765年10月30日),上总大多喜藩藩主松平正温三子作为资尹养子而继位,即松平资承。天明4年7月2日(1784年8月17日),资承新田分知350石予其弟村上常福。文政5年12月13日(1823年1月24日),宫津藩再次爆发一揆[2][8][9]。
庆应2年7月25日(1866年9月3日),藩主松平宗秀在第二次长州征讨担任总督补佐时由于擅自释放长州藩藩士而被下令蛰居[2]。鸟羽伏见之战爆发时,宫津藩作为幕府军参战,战后被视为朝敌,并且被禁止进出京都九门。庆应4年5月23日(1868年7月12日),宫津藩才正式获赦免,宫津藩作为藩虽然再没有在戊辰战争出兵,但是部分藩兵则在北越战争和会津战争中参战。庆应4年9月1日(1868年10月16日),藩主松平宗武献上金二万两作为东京行幸的费用,宫津藩因此获新政府军下赐纸币二万两[10]。明治4年7月14日(1871年8月29日),废藩置县[11]。
历任藩主
家名 | 家格 | 名称 | 石高 | 藩领 |
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京极家 | 外样 城持 |
京极高广 | 78,200石 | 丹后国与谢郡、竹野郡、中郡和加佐郡 |
京极高国 | ||||
永井家 | 谱代 城持 |
永井尚征 | 73,600石 | |
永井尚长 | ||||
阿部家 | 阿部正邦 | |||
奥平家 | 奥平昌成 | 90,000石 | ||
青山家 | 青山幸秀 | 48,000石 | ||
青山幸道 | ||||
本庄松平家 | 松平资昌 | 70,000石 | 丹后国与谢郡、竹野郡、中郡和加佐郡 近江国栗太郡、野洲郡和蒲生郡 | |
松平资尹 | ||||
松平资承 | ||||
松平宗允 | ||||
松平宗发 | ||||
松平宗秀 | ||||
松平宗武 |
领地
令制国 | 郡 | 领地 |
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近江国 | 栗太郡 | 今宿村 |
野洲郡 | 守山村、吉见村 | |
甲贺郡 | 三云村、今宿村、德原村、高峰村、大原中村、泷村、龙法寺村、三大寺村、岩阪村、牧村、江田村 | |
蒲生郡 | 小口村、马渊村、葛卷村、中在寺村、小野村、庄村 | |
丹后国 | 中郡 | 三重村、森本村、上常吉村、下常吉村、口大野村、周枳村、二个村 |
竹野郡 | 生野内村、乡村、新庄村、冈田分、中馆村、日和田村、和田上野分、滨分、木桥村、和田野村、沟谷村、外村、等乐寺村、下冈村、网野村、浅茂川村、小滨村、挂津村、岛沟川村、仲禅寺村、井边村、尾坂村、三津村、德光村、三宅村、成愿寺村、愿兴寺村、岩木村 | |
与谢郡 | 云原村、与谢村、泷村、金屋村、后野村、加悦町、温江村、加悦奥村、算所村、三河内村、四辻村、几地村、岩屋村、田中村、有田村、须津村、石川村、明石村、香河村、锻冶村、猎师村、小田村、喜多村、今福村、宫村、惣村、皆原村、山中村、新宫村、胁村、中村、小寺村、上司町、中津村、小田宿野村、岛阴村、田井村、矢原村、狮子村、狮子崎村、波路村、上山田村、下山田村、弓木村、岩泷村、男山村、国分村、沟尻村、小松村、成相寺村、中野村、大垣村、江尻村、难波野村、日置滨村、日置上村、畑村、下世屋村、松尾村、东野村、上世屋村、驹仓村、木子村、须川分、野中分、奥波见村、里波见村、长江村、外垣村、岩鼻村、田原村、日出村、龟岛村、平田村、日谷村、菅野村、本庄宇治村、长延村、蒲入村、野室村、津母村、井室村、六万部村、泊村 | |
加佐郡 | 佛庄寺村、北原村、毛原村、内宫村、二俣村、天田内村、桥谷村、关村、河守村、小原田村、日藤村 |
注解
参考资料
- ^ 1.0 1.1 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、角田文卫、上岛有、足利健亮 (编). 宮津藩・宮津. 角川日本地名大辞典 京都府 上巻 総説・地名編. 角川日本地名大辞典 26 日本文学Web図書館. 角川书店. 1982-07-08. ISBN 4-040-01261-5 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 伊东宗裕. 宮津藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 近畿編 5 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 443–449. ISBN 4-639-10039-6 (日语).
- ^ 上屋敷 マップ. 人文学开放数据共同利用中心. [2023-11-06]. (原始内容存档于2022-08-15) (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次 (编). 東大久保. 角川日本地名大辞典 東京都. 角川日本地名大辞典 13 日本文学Web図書館. 角川书店. 1978-10-27. ISBN 4-040-01130-9 (日语).
- ^ 东京都 (编). 二 帝都(一). 東京市史稿 市街編. 东京市史稿 49 (东京都). 1960-03-25: 871–877 [2023-11-05]. 国立国会图书馆书志ID:000001226894. (原始内容存档于2023-11-05) (日语).
- ^ 6.0 6.1 林屋辰三郎、村井康彦、森谷克久、井上满郎、今谷明、镰田道隆、川嶋将生、田边昭三、富井康夫、藤田彰典、守屋毅、安冈重明、吉村亨 (编). 上生洲町. 京都市の地名. 日本历史地名大系 27 JapanKnowledge. 平凡社. 1979-09-20. ISBN 4-582-49027-1 (日语).
- ^ 7.0 7.1 中嶋利雄. 宮津藩. 国史大辞典编辑委员会 (编). 国史大辞典. 国史大辞典 13 JapanKnowledge (吉川弘文馆). 1992-04-01. ISBN 978-4-642-00513-5 (日语).
- ^ 本庄資尹. kotobank (日语).
- ^ 本庄資承. kotobank (日语).
- ^ 伊东成郎. 宮津藩. 新人物往来社 (编). 三百藩戊辰戦争事典 下. 新人物往来社. 2000-01-25: 87–89. ISBN 4-404-02822-9 (日语).
- ^ 宮津藩. kotobank (日语).
- ^ 旧高旧領取調帳データベース. 国立历史民俗博物馆. [2023-07-12]. (原始内容存档于2020-11-25) (日语).